天国への道2

🌸4世代10人ドタバタ国際家族が幸せな家庭をめざしてどう生きるか? 日々のエピソードや所感を勝手気ままに書き散らかしていきます🌸

不思議な出会い


先日不思議な体験をしました。
15年前から友達のようにしている
78歳の鈴木さんという老人がいます。
彼は洋服を作るテイラー
過去に、コンテストで総理大臣賞も頂く凄い洋服屋さんです。
彼の作るスーツは数十万円もするとか 。


以前、彼のお誘いで、ファッションショー
夫婦で観に行ったことがありました。
お付き合いのつもりが、すっかりはめられました。
”洋服”じゃなくて”芸術品”だったからです。
素敵で立派な洋服も、人が袖を通した瞬間から、
動く芸術品に変わってしまうから不思議です。


彼のお得意さんは政治家や芸能人だとか… 。
数人の弟子にも教えていたそうです。


ところが20年前、通りすがりに、
通り魔に腕を切られる事故で、
素晴らしい芸術品を作り出す魔法の手は
お得意様のオーダーだけになりました。
今は、細々と仕事をしていました。
「それでも好きな仕事はできるからね、ありがたいよ」
と言っていました。


奥様にも先立たれ一人暮らし。
お仏壇の花とお供え物はいつも新しくお供えしてありました。
大きな仕事場は別にあるそうですが、
生活する彼の部屋の中はきちんと整理され、
真冬でも窓が開いていて、綺麗に生活されていました。
いつ行っても同じ場所に、先の削られた鉛筆が、
鉛筆立てに数本立ててありました。
これが、一針一針に魂が込められた妥協を許さない
芸術品を生み出す人の部屋
なのだ。
部屋掃除に半日かかると言ってたことに納得しました。


子供達家族は仙台に離れて暮らし、とても寂しい人です。
私は彼の誕生日と奥様のお命日には必ず、
そして、気になるときに会いに行っていました。


ところが、訪問したときには
なぜか彼の身辺に大変なことが起こっていました。


だから鈴木さんは時々私に言っていました。
「あなたはいつも僕が大変な時にやって来る、
不思議な人だねぇ~」


ある日、彼のアパートに行くと彼は留守でした。
そのアパートの管理人さんの話では
彼は3日前に入院したらしいと・・・。
救急車で運ばれて行き先はわからないと言いました。


管理人さんは彼について何も知りませんでした。
長いこと、このアパートに住んでいるというのに・・・。
彼は無口で真面目な人だから
管理人さんが気にかける必要もなかったのでしょう。


「鈴木さんの行き先がわかったら教えてください」
と管理人さんは私に言いました。


彼は、時々怪我の後遺症のために病院通いをしていました。
だから、きっとその病院にちがいないと思いました。


翌日その病院を訪ねてみました。
しかし、入院名簿に彼の名前はありませんでした。


「どこに行ったのかな・・・」
そう思ったとき、携帯電話が鳴りました。
驚いたことに電話の相手はなんと、鈴木さんでした。
今まで私の携帯電話に、彼の方から掛けてくることは
ほとんどありませんでした。


「どこに入院しているのですか?
私は鈴木さんを探して、今、О病院にい来ています」


「そこじゃないよ、K病院だよ」


「いったいどうしたの?」


彼は胆石で入院したと言いました。
私は直ぐに、О病院からK病院に向かいました。


ベットの上の鈴木さんは私を見ると、また言いました。
「あんたは不思議な人だね~」


人間とは不思議なものです。
遠く離れていても、

見えない何かでつながっているのですね。


誰かによって祈られ、
誰かによって生かされて、
みんな、お陰様でこうして生きてるんですね。

僕は、勉強できないけれど・・・。


冬季五輪北京大会が2月4日に開幕され、
コロナ厳戒の中、熱き闘いが開始しました。


我が家では、2月1日から、
孫たち(長女と次女の息子)の中学受験
緊張の闘いが始まっていました。


一人は、3校を受験して、第一希望を含めた2校に合格
ところが、一緒に頑張っていた、もう一人の孫は
一校だけに狙いを定め、一発狙いしましたが
そこが不合格になってしまったのです。


しかし、諦めずに同じ学校の2次試験に再度挑戦・・・、
しかし、不合格・・・。
これで諦めるのかと思いましたが、
「三度目の正直ってこともある」と、
諦めずに3回目に再々挑戦したのです。
しかし・・・、「二度あることは三度ある」
ことごとく蹴落とされてしまいました。


「これは、神様の配慮かもしれないよ」
娘が自分を納得させるように言いました。


3度目の合格を心待ちしていた孫の担任の先生から
合否の発表がなされた夜、娘に電話がありました。


不合格を知った先生は、とても残念に思って
以前から孫に受験を勧めていた学校を
すぐに受験するようにと、娘に言いました。


しかし、意気消沈してしまった孫は、
誰の言葉にも耳を貸しません。


試験は2日後に迫っていました。


レジリエンスという言葉があるけれど
願わくば、頑張ってきた子には挫折感を経験させたくない
これが大人の本音かもしれません。


先生は、学校で本人と話してみるとおっしゃって
放課後、孫を学校に残して面談をしてくださったのです。
「そこの学校にご縁があるかどうか試してごらん」
面接試験もあるからと、面接の練習もしてくださったのです。
孫をどのようにして発奮させたのか不明ですが、
それにしても、先生の一言って凄いです。


父兄の間では「金八先生みたいだ」と言われている先生。
孫の背中を押してくださった“金八先生”に感謝しました。


受験当日の朝、
学校説明会や下見もしていない学校の校門まで、
孫を送って行きました。


得体のしれない巨大に立ちはだかるようなこの中学校に、
孫は本当にご縁があるのでしょうか・・・。


試験会場に向かう孫の背中に向かって、ただ祈るだけ。
誰も、孫に声をかけられませんでした。
どんな言葉も風に舞う落ち葉のようで
孫には必要ないと感じました。


この日、北京オリンピック3日目の2月6日夜、
小林陵侑選手がスキージャンプで
24年ぶりの金メダル獲得
日本初の金メダルが決まりました。
日本中に「すごい!」「おめでとう!」の嵐が吹き荒れた
その少し前の時間に「孫の合格」を知りました。

「諦めなくてよかったね!」
「合格おめでとう!」

合格を知った先生が飛び上がって、
喜んでくださったそうです。


面接の練習の時に“金八先生”から
孫がもらったアドバイスの言葉は


「僕は勉強できないけれど、
他の事で頑張ります!」


面接でのこんな言葉が合格を決めたのでしょうか。ヽ(´∀`)ノ


孫は、確かに学力は足りないかもしれませんが、
勉強以外の運動とゲームが得意。
徒競走では学校で一番の記録を持っているとか。


虫や魚を捕まえてくるのが得意で、
ギョッ!とするような様々な生き物を家の中で飼育し、
「生物学者になるの?」と、からかわれています。


他人と比較したりせず、思いやりがあり、
遊び友達もたくさんいます。
何事も嫌だと言わないから、
学校生活でも頼りがいがあるらしいです。


このような面白い個性的な小学生を
測るモノサシはあるのでしょうか。


“金八先生”はそのモノサシを持っていたのでしょう。


「決して諦めない」
「七転び八起き」


孫の受験と北京五輪を通してまた一つ、
感動させられました。

大峯千日回峰行を経てたどり着いた境地~塩沼亮潤大阿闍梨~


酒井雄哉師の千日回峰行のNHKTV番組を
小学生の時に観て、千日回峰行に憧れ、
仏門に入った方がいらっしゃいました。
塩沼亮潤(しおぬま りょうじゅん)大阿闍梨です。
彼もまた、大峯千日回峰行を満行したのです。

1987年、吉野山金峯山寺で出家得度。

1991年、大峯百日回峰行満行。

1999年、大峯千日回峰行満行

(往復48キロの山道を毎日、16時間かけて9年間歩き続ける)

2000年、四無行満行

(断食、断水、不眠、不臥=食べない、飲まない、 寝ない、横にならない9日間の行)

2006年、八千枚大護摩供満行。

現在、仙台市秋保・慈眼寺住職を務める。

著書多数。全国でたくさんの講演を行っています。


<塩沼亮潤大阿闍梨の名言>

人生も行も

最も重要なポイントは

人を恨まない、

人を憎まない、

人のせいにしない

覚悟を持つことです

塩沼亮潤大阿闍梨様の夢は、世界の中を飛び回って、
心を伝える坊さんになることだそうです。


全国でたくさんの講演をされ、ご著書もたくさんあります。


参考抜粋:
・GLOBIS知見録

YouTubeの「GLOBIS知見録」からお借りしました。
↓↓↓


死と向き合う荒行~千日回峰行:酒井雄哉~

仏道の中でも最も厳しいとされる、
比叡山・延暦寺の荒行
千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)
7年(1000日)がかりで約4万キロを歩く
最大の難関は700日目の「堂入り」だという、
9日間断食、断水、不眠、不休を続け、
行者は死と向き合う荒行だそうです。


この千日回峰行を2度満行したという
天台宗大阿闍梨(だいあじゃり)の

酒井雄哉(ゆうさい)さん。


2度満行した人は、1000年を超える比叡山の歴史の中でも
3人しかいないそうです。

この酒井雄哉さんとはどんな人なのでしょうか


1926年大阪市で生まれる。

旧制中学卒業後、慶応義塾商業学校に入ったが、

1944年、予科練に入隊。


特別攻撃隊員として終戦を迎えた。

戦後は様々な職業を転々とし、多大な借金を抱える。

33歳で結婚するが、2か月で妻が自殺してしまう。


様々な悩みを抱え1965年に得度し、

39歳で比叡山延暦寺に入る。


1973年47歳で千日回峰を開始し、

1980年10月に満行。


更に半年後に2度目の千日回峰に入り、

1987年7月、60歳という最高齢で

2度目の満行達成。

「すべてが仏となる」という境地に達した。

仏教伝道文化賞(功労賞)受賞。


比叡山飯室谷不動堂長寿院住職を務めた。

数多くの著書は、生き方の指針や人生の知恵を与えてくれます。


“生き仏”と称され、2013年9月、87歳で入滅。


 


この千日回峰行の様子は1979年1月
NHK特集『行~比叡山・千日回峰~』で放送された。


実は、このNHKの番組を私も観て、
強烈な印象を持ちました。
長女がお腹にいた時でした。


2度目の満行を達成した、後にいただいた、
酒井阿闍梨さんのサイン入り
写真集『道遙かなり』を大切にしています。
この酒井雄哉阿闍梨さんのご縁なのか
お坊さんの先祖の導きなのか、


私が信仰の道に来るきっかけにもなったような気がします


また、この同じTV番組を見ていた人が他にもいました。
酒井雄哉師の千日回峰行を、小学生の時に観て、
千日回峰行に憧れ、仏門に入った方。


塩沼亮潤(しおぬま りょうじゅん)大阿闍梨です。


彼もまた、大峯千日回峰行を満行したのです。


<塩沼亮潤師については次回に続きます>


参考抜粋:
酒井雄哉大阿闍梨の壮絶な荒行と不思議な体験
著書『今できることをやればいい』を
YouTubeからお借りしました。
↓↓↓


酒井雄哉大阿闍梨

①大阿闍梨 酒井雄哉 比叡山延暦寺の千日回峰行を2度満行した行者が語る不思議な体験



【引き寄せ文庫】毎日を幸せに暮らすための60のヒント。天台宗大阿闍梨・酒井雄哉。本の要約

子を失ったら胸に埋める

「子を失ったら胸に埋める」
韓国で使う言葉だそうです。
ある日突然、

自分の命よりも大切な愛する子供を失ってしまったら
親としてそれ以上の苦痛はないでしょう。


尊敬する韓鶴子女史は、
13人の子供の内4人を事故や病気で失いました


一番最初の悲しみは、次男の文興進君を、
アメリカにて交通事故で失ったことです。
17歳でした。1984年(旧暦の1月2日)の事です。


その時の韓鶴子女史の様子を夫の文鮮明師が、
ご自分の自叙伝に次のように書いています。
 

興進は年を超えた1984年1月2日(旧暦)の早朝、

天の国へと旅立ちました。

ちょうど1月前に17歳の誕生日を

迎えたばかりでした。

育てた子供を先に送り出す妻の悲しみは

筆舌に尽くしがたいものでしたが、

声を出して泣くどころか

涙さえ流すことができませんでした。


私たちは霊魂の世界を知っています。

人の霊魂は命を失ったからといって

埃(ほこり)のように消えてしまうのではなく、

霊魂の世界に行きます。

しかし、愛する子供と、もはやこの世で会うことも、

触れることもできないということは、

親として耐え難い苦痛です。

思いどおりに泣くこともできなかった妻は、

興進を乗せた霊柩車を何度も撫でていました。


この様な大きな苦労を経験するたびに、

心に衝撃を受けたはずですが、

妻は良く乗り越えてくれました。 

いくら困難で大変な状況の中でも、

妻は穏やかな笑顔を忘れずに、

人生の峠を越えてきました。


信徒たちが子供の問題で相談に来ると、

妻は笑顔で答えます。

「待ってあげましょう。

子供が道に迷うのは一時のことで、

いつかは、過ぎ去ります。

子供たちが何をしても、

絶えず抱き締めるような気持ちで、

愛してあげながら、あとは待ちましょう。

子供たちは必ず両親の愛の懐に戻ってきます」


私は生涯、妻に大声を出したことがありません。

私の性格がもともとそうだったからではなく、

妻が大声を出させるようなことを

したことがないからです。


抜粋:文鮮明自叙伝『平和を愛する世界人として』211~212頁



きょう、2022年2月1日は旧暦の元旦。
旧暦を使っている、韓国、中国、東南アジアの国々は
旧正月ですね。
明日は、文興進君の39回目のお命日です。