天国への道2

🌸4世代10人ドタバタ国際家族が幸せな家庭をめざしてどう生きるか? 日々のエピソードや所感を勝手気ままに書き散らかしていきます🌸

絶望を超えて道を開く~ヘレンケラーと岩崎武夫~


1934年12月、

アメリカコネチカット州のヘレンケラー宅に、

1人の盲人の日本人男性が訪れた。

彼、岩崎武夫は視聴覚障害者の救いの道を開くために、

「日本に来てほしい」とヘレンに切願した。


ヘレンは心を動かされたが、

直ぐに行けない事情があった。

恩師であるサリバン先生が

瀕死の床にあったからです。


悩むヘレンにサリバンは毅然と言った。

「日本に行ってあげなさい。

私があなたに教えてきたのは、

全世界の障害のある方々を幸せにするためです」


ヘレンは、サリバンの死後、

「先生に枯れない花を手向けよう。

先生の奉仕の生涯を自分が引き継いで行こう」


1937年4月、ヘレンは日本に着いた。

「奇跡の聖女」は日本で大歓迎を受けた。


岩崎はヘレンの来日を通して福祉法案を成立させ、

危機的状況にあった日米関係を回復しようとした。


しかし、太平洋戦争によって、道は閉ざされた。


絶望に打ちひしがれた岩崎の元に、

戦争終結と共にヘレンより手紙が届いた。


「海の上でどのような災いがあろうとも、

海の底を通してつながっている私とあなたの信頼は、

切断できません。――日本に行きます」


ヘレンは1948年、

戦争で荒れ果てていた日本に来て語った。


「日本は必ず再生できると信じています。

人間には試練があります。

この試練を克服するためのただ一つのもの、

それは信念です。

戦争がもたらした困難や

利己主義などと言ったものは、

簡単には拭きれません。


しかし、私たちが確固たる信念を持つならば、

未来において、子孫は必ずや私たちの

先見の明に感謝するでしょう。

人々に力を貸し、

その不幸な境遇を乗り越えさせる信念こそ、

今、最も必要です」


ヘレンが最も感動したのは、

原爆が投下された広島の市民だった。

「多くの苦しみがあったのに、

日本人は11年前と同様の愛情を与えてくれた。

私は広島と長崎を一生忘れない」


(中略)

ヘレンは帰国を前にして、特別記者会見で、

世界に向けて声明を発表した。

「日本全国の盲人団体が結束して

政府の施策を講演すること。

厚生省と文部省は障害者の保護に

積極的に協力すること」


ヘレンの声明は、日米指導者と国民を動かし、

ついに翌年、法案は成立した。


この時、福祉法案成立に全生涯をかけた岩崎の心に、

彼が19歳の時、

網膜剥離で失明し失意のどん底で出会った

イエスの言葉が去来した。


ヨハネ9章1節にある、

「先生、この人が生まれつき盲人なのは、

誰かが罪を犯したたためですか。

本人ですか。それとも両親ですか」


イエスは答えられた。

「本人が罪を犯したのではなく、

また、両親が犯したのでもない。

ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」


ヘレンと岩崎の信念と和合で、

福祉法案成立の「神のみわざ」が実現したのである。

1954年、岩崎は56年の生涯を閉じた。


(引用資料は、

その時歴史は動いた、NHK取材班編 集英社)



参考抜粋:浅川勇男著『いのちの言葉』(Sunday世界日報)