天国への道2

🌸4世代10人ドタバタ国際家族が幸せな家庭をめざしてどう生きるか? 日々のエピソードや所感を勝手気ままに書き散らかしていきます🌸

解剖室をのぞき込む桜


病院の解剖室をのぞき込んで咲くソメイヨシノ
何故かこの桜の木の、この枝だけ一番先に咲く。
ほかの桜はまだ固いつぼみなのに・・・。
なぜだろう?
不思議に思っていた。


東京は今、桜の花は満開を過ぎた。
チラチラと桜吹雪、ピンク色のジュータンも美しい。


信州長野県の桜開花は東京より一か月ほど遅い。
4月中旬から5月の連休が桜の季節になる。
あの病院の桜は今年も咲いているだろうか?



私は、45年前、長野県の佐久総合病院で働いていた。
病院は千曲川の川沿いに隣接し、桜並木が毎年見事だった。
あたりは田園地帯、そのど真ん中で
当時は高層の立派な病院は目立つ存在だった。
私は臨床検査技師として病理検査室に勤務していた。


病理解剖があるときは、
解剖の補助もしなければならなかった。
解剖は、医師の仕事がない夜間に行われていた。


当時、佐久病院は全国の中で先駆けて
「農村医学」や「集団検診」をしていた。
そのためか、あるいは若月俊一院長を慕って、
研修医が全国からたくさん集まり研究熱心だった。
だから、勉強会や解剖も多かったのかもしれない。


今では当たり前の健康診断を、
50年も前から先駆けて地域住民に実施し、
訪問による集団検診で健康管理を指導していた。


余談ですが、病院の仕事が終わると、
病院のあちこちで酒盛りをしていた。
だから「佐久病院」のあだ名は「酒病院」だった。


芥川賞受賞作家
南木佳士『信州に上医あり』には、
当時の病院と若月院長が描かれている。
彼は、当時研修医から佐久総合病院に来ていた。
(参照:ブログ記事
ダイヤモンドダスト~青春の思い出~ https://satofamily3.fc2.net/blog-entry-201.html」)


当時の佐久総合病院(改築前の様子)


私は、夜中に電話で解剖室に来るように呼び出される。
病院の端の別棟の小さな建物が解剖室であった。
ほぼ明かりのない、暗くて長い廊下を一人で解剖室に向かう。


4月の信州はまだ肌寒い
白衣の上にコートを着込んで向かう。
しかし、解剖室に一歩入ると、とても暖かい。


解剖室と繋がっている霊安室から、
お線香の香りが漂って来る。
そんな中で若い男性医師と二人だけで仕事をする。




仕事が終わると明け方になることもしばしばだった。
医師は、仕事の後に解剖室隣のシャワー室を使っていた。
だから私は、そのまま急いで小さなアパートに帰った。


当時、母は私の仕事をとても嫌がった
解剖のあった日は、私に会うのを避けていた。


「女は手に職を持ったほうがいい」
と、母は口癖に言っていたが、
「そういう仕事は駄目、仕事を変えてもらうように」
と言った。


女性が自立すべきと言いながら、
「若い娘が嫁に行けなくなる」という心配をしていた。
昭和一桁生まれの母には、この仕事は理解が難しかったようだ。




半年後、母の願いが叶い、
私は病理検査から生化学検査室に移動した。
女性では仕事がハードすぎるという理由だったようだ。




それからは、ほとんど解剖室には行かなかった。
亡くなられた方に手向ける”お弔いの供花”のように
解剖室をそっと静かに覗き込んでいる、
あの窓辺の桜
のことも忘れていた。




ところがある日、解剖室の外を通りがかると
あの窓辺の桜の枝の葉が、なぜか小刻みに震えていた


何だろう・・・
小さな動物か鳥でもいるのだろうか・・・。


静かに恐る恐る近寄ってみると・・・、
なるほど、その理由を発見した。
当たり前の現象に拍子抜けして、
ひとりで笑ってしまった。


解剖室の窓際のすぐ上に、大きな換気扇があった。
その換気扇のファンが音もなく激しく回っていた
たぶん解剖室の中では仕事の真最中なのだろう。



解剖室をのぞき込んで咲くソメイヨシノ
たぶんこの桜の枝は、
早春の凍りつくような信州の寒さの中で、
枝先を伸ばしながら、解剖室からの暖かい恩恵を、
いただいていたのでしょう。