天国への道2

🌸4世代10人ドタバタ国際家族が幸せな家庭をめざしてどう生きるか? 日々のエピソードや所感を勝手気ままに書き散らかしていきます🌸

どんな状況でも最後まで諦めない!


すでに他界した私の父は、
登山とスキーが趣味だった。
だから私も幼いころ、
父の背中に背負われて山やスキーを知った。


小学校以前の頃は、
今のような立派な子供用のスキー道具や

ウエアーがなかったから、
私は長靴にスキーを履いて、
セーター姿で雪の中を転がっていた。
赤いセーターに雪が凍り付いて白いビーズ状になった、
長靴の中も雪が詰まった。


だから、ゲレンデのど真ん中で、
父の姿を探してよく泣いていた。


そんな私にとっては、
ゲレンデにあるレストランの暖かいストーブの傍で、
買ってもらったバニラアイスを食べるほうが嬉しかった。


小学生になると、
長野県の白樺高原、菅平、志賀高原、美ヶ原など
スキー場や新雪の山スキーを、
父の後を追って滑り降りていた。
父は私に容赦なかった。

父は時々、天皇家のどなたかの山スキーを
ご案内したと自慢していた。


中高校性になると日曜日と祭日は、
スキー場に父と妹と3人で行った。
私はスキー学校の講師の真似をして、
小さな子供たちに教えたりもした。


蓼科山の白樺高原のスキー場で、
初めて宣伝効果を狙ったイベントの
「スキー大会」が行われた。
高校生の私も出場させられたが、
私は競技などは全く初めてだった。


当時はリフトで蓼科山の五合目まで登り、
そこから大回転で一気に下まで滑り降りるコースだった。


大会当日の飛び込み出場者もいるため、
何人が出場するのかわからなかった。
高校の部では私の優勝を、
ひそかに父は期待していたようだ。


この日のために父は、スキーのワックス掛けや
ビンディングの調整を夜遅くまで念入りにしていた。


いよいよ当日、詳しいことは忘れてしまったが、
私は一番きつい斜面でポールにスキーを引っ掛けて

転倒してしまった。
おまけに片方のスキーが外れてしまい、

スキーを履くのに手こずっていた。


近くで見ていた審査員が、
「行け~!早く行け~!」と私に向かって叫んでいた。


しかし、私は棄権してしまった。
完全に放棄して、旗門を外して
とりあえず下まで滑り降りてゴールすると、
観客は拍手してくれたが、私の心はズタズタだった。
「こんなかっこ悪い姿」を惨めだと思ったのだ。


「ビンディングが原因だった」
父は素人考えで、自分がいけなかったと言った。


誰のせいでもない、
諦めてしまった私が一番問題だ
とわかっていた。


「どんなに遅れても、
旗門さえきちんと通過してたら優勝できたのに…」
と、
父の友人の審査員は残念がった。


競技とは名ばかりで、お祭りだったから
タイムなど関係なかったのだ。


私にとっては、この大会が最初で最後だったが、
妹はそのあと何年か優勝していた。


『どんな状況になっても、
決してあきらめなければ道は開け、
慌てなければどんなことでも対処できるのだ』


この言葉に触れる時
小さなスキー場のこのスキー大会を思い出す。