天国への道2

🌸4世代10人ドタバタ国際家族が幸せな家庭をめざしてどう生きるか? 日々のエピソードや所感を勝手気ままに書き散らかしていきます🌸

平和を願った義人がまとった濡れ衣?~共に誤解された二人の英雄~


3月26日は、安重根(アン・ジュングン)の命日だった。
この日、ソウルの安重根義士記念館で追悼式が行われた。


安重根(アン・ジュングン)は、1909年10月26日、
ハルピン駅で伊藤博文を暗殺した人物である。


暗殺事件の翌年3月26日午前9時・・・
伊藤の月命日26日と時刻9時に合わせて安重根は処刑された。


立場が違えば、ひとつの出来事がどう違って見えるのか?
安を韓国では「義士」「英雄」と・・・
日本では安を「テロリスト」「暗殺者」と・・・


日韓問わず安重根を「反日の象徴」として捉えている人は、
間違った情報を信じて史実を知らないでいる。


<伊藤博文と安重根>


これまでたくさんの人が伊藤博文暗殺事件の真相を探ってきた。
それによれば、伊藤と安の二人は共に誤解された英雄なのだ。


伊藤博文朝鮮の植民地化や併合を断固反対で貫き通した人だ。



安重根はクリスチャンであり東洋平和を望んだ
日本国や明治天皇に敬意と感謝の念を持つ親日派であった。


そのような安をどう見ても伊藤を射殺したとは考えられない。
安は伊藤の顔をよく知らなかった。
伊藤博文が着ていたコートの弾痕や遺体に残った弾丸から
伊藤は安でない何者かによって射殺されたか・・・
安重根は何者かに嘘の情報を吹き込まれたか・・・


また、安と深い情で関わった獄中での日本人(弁護士・看守・検事)の証言からも、安が伊藤を射殺したテロリストとは考えられない


暗殺から113年が経った今でも真相は謎に包まれたままだ


それにもかかわらず・・・
韓国では安重根が伊藤博文を暗殺した「反日英雄」とし、
映画やミュージカルの『英雄』が国内外に流れた。
この様なフィクション映画を史実だと勘違いする人もいるという。


先日の3月16日・・・
岸田総理と大韓民国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領の首脳会談が行われた。


いつの時も、日韓が歩み寄ろうとすると、
なぜかざわざわと騒ぎ出す。


安と関わった日本人には安はどのように見えたのだろう。


事件後、投獄された”旅順監獄”で安に関わった多くの日本人が、
安の人柄と思想に感銘を受けたと証言している。


安と深い情的交流を交わし、
安から贈られた直筆の墨書を大切に保管し、
日本に持ち帰った人達が何人もいる。


墨書にはすべて、切断した薬指の短い左手の手形が押されている。
安は死ぬまでカトリック信仰を持ち続け、
東洋に平和が訪れ韓日の友好がよみがえることを願っていた


裁判での陳述や著書『東洋平和論』でも安は反日を主張していない。 
これは看守など獄中での日本人との交流でも明かで、親日派であった。


安と獄中で関わった日本人は・・・

水野吉太郎(主任官選弁護士・高知出身)

安重根の人柄に感化され、安は朝鮮の志士であるといい、

情状酌量を求め、殺人罪としては最も軽い懲役3年を主張した。

水野も手帳に安重根の親筆を得ており、

彼は処刑の朝の面会に同席し、

この時、安からキリスト教に改宗を勧められ

「天国で共に語り合おう」と言われた。

水野は安の志を尊重し、死刑執行後に皆で

「東洋平和のため万歳三唱」することを願い出たが、

刑務官は許さなかった。

                                          溝渕孝雄(検察官)

獄中で『東洋平和論』書き終えるまでの時間的な猶予と、死刑の時に身に纏う絹の白装束衣を願い出た。


安は溝渕から遺言を求められると

「諸君が、東洋平和のために御尽力されることを願う」とだけ言った。

                                          千葉十七(看守・宮城県出身)

安の気高い愛国の情にうたれ、安重根畏敬の念を深めた。

安は処刑の直前、千葉に『為国献身軍人本分』

(国家のために献身するは、軍人の本分なり)と、書いて贈り、

「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」

と語った。

(墨書「為国献身軍人本分」:薬指の短い左手の手形)

                                                     千葉は後に故郷の宮城県に帰った後も、

生涯1日も欠かさず安の供養をした。

千葉の菩提寺のある宮城県栗原市大林寺には

この遺墨を複製した大きな安重根顕彰碑が建てられ、

碑の裏には山本壮一郎県知事(当時)の

『日韓両国永遠の友好を祈念』の文字が刻まれている。

1992年9月6日からは日韓合同で毎年、

安重根・千葉十七夫妻の合同供養が執り行われている。

                                               栗原貞吉(刑務所長・広島県出身)

安に感化された1人。                                 安に煙草などを差し入れ、助命嘆願をするなどしていた。

処刑前日に、彼も絹の白装束を安に贈り、

厚い松板の特別な棺を用意した。

死刑執行後、栗原は安の死を惜しんで退任して

故郷の広島に帰った。

                                              八木正礼(看守・高知県出身)

安の墨書『言忠臣行読経漫放仮行』を記念に持ち帰り、

2004年、孫の八木正澄氏が韓国に寄贈した。

                                                  安岡

”国家の安全と危機に心を労じ思いを焦がす”という意味の

『國家安危勞心焦思』

これを贈られた安岡も日本に持ち帰った。

                                                津田海純(浄心寺の住職・岡山県出身)

安からの遺墨3点を浄心寺で保管、

1997年に龍谷大学に寄託した。

当時、津田は言っている・・・

「安重根の平和思想に感動を受け

厚い信頼関係を築き書をもらった。

安重根は多くの人に感動を与えた」

                                                     この遺墨を所持していた彼らは、

所持しているというだけで逮捕される恐れがあったが、

安の形見として大切に保管してきた。


戦後この遺墨は、遺族によって韓国の

安重根義士記念館に寄贈された。


在日本大韓民国民団は・・・
2014年3月26日の安重根の追悼式(東京)の中で述べた。
「安重根義士はテロリストではなく、
東洋の平和を切に願った義人だ、この事実を知るべきである」


113年を経ても、安重根は不幸な形で誤解されている。
伊藤暗殺の真相も謎のままである。


また、安の死刑を執行した大島義昌(関東都督府の当時の都督)は、
安倍晋三の高祖父にあたるという巡り合わせがある。


<安倍晋三の高祖父:大島義昌>


何故か類似している二つの事件
「7・8暗殺事件」「伊藤博文暗殺事件」
事件後8か月、また113年が経ても真相究明がされず
犯人の動機と銃痕の位置や方向など不可解な謎は
闇に葬られているまま
である。


冤罪(えんざい)・・・
濡れ衣・・・


変な臭いがしてならない。


(7・8暗殺事件については次回に)

安重根(1879~1910)

大韓民国黄海道海州の名門両班(ヤンバン)出身。

尚武的性格。1895年にカトリックに入信。

1905年の乙巳保護条約を契機に民族運動に目覚め、

愛国啓蒙運動に参加。

                                                       1907年丁未七条約が締結されると、

国外亡命を決意してウラジオストックに行き、

義兵の参謀中将となる。                                                                                        

1909年10月26日、ハルピン駅で伊藤博文を射殺。

翌年3月26日午前9時処刑された。                                                            

彼は天賦人権論の立場で社会進化論を批判し、

弱肉強食的な世界の現実を積極的に批判した。

獄中で書いた『東洋平和論』は未完に終わった。

参考:
・中央日報
・JBpress(羽田 真代:在韓ビジネスライター)
・産経新聞
・聯合ニュース
・朝鮮日報
・『韓国人が知らない安重根と伊藤博文の真実』 (祥伝社新書)
・『英雄視する前に韓国人が知っておくべき安重根の真実 』(K・ギルバート)

・歴人マガジン(伊藤博文の死因:暗殺事件の内容と今も残る謎とは?)