天国への道2

🌸4世代10人ドタバタ国際家族が幸せな家庭をめざしてどう生きるか? 日々のエピソードや所感を勝手気ままに書き散らかしていきます🌸

多くを与えて逝かれたひと~森山操~


1月4日は実父のお命日。
ちょうど20年前の2003年1月4日の実父の一周忌に、
私は長野県のホテルの露天風呂にて、
一人の女性と鉢合わせになり、
とても恥ずかしい思いをしました。


信州のお正月、早朝の露天風呂・・・
おそらく誰も入っていないと思っていました。


しかし、湯煙の向こうに、すでに誰かひとりが入浴中。
特に気にも留めませんでした。


ところが、湯から上がった瞬間、
すごく戸惑いました。
裸のお付き合いとは言いますが、
全裸での挨拶はなんとも気まずい瞬間でした。


「あら~~! おはようございます!」


その女性は、知る人ぞ知る・・・
大先生と呼ばれる森山操先生だったのです。


森山先生は著書や講演も多数で、
教育関係以外からの講演依頼もたくさんあり、
全国から引っ張りだこの有名講師でした。



実は、この日、このホテルにて
実父の1周忌追慕式を兼ねて、
「親族の集い」を主催し、
講師として森山先生をお招きしました。


私のような個人の依頼も快く受け、
東京から駆けつけてくださったのです。


この日の講演は・・・
先生の体験エピソードで始まり、
ホテルの会場は初大笑い


次のようなエピソードでした・・・


落ち着きのない茶髪の生徒ばかりの高等学校での講演です。
(当時はこんな学校もあったのです)


「なんだこの婆さんは・・・」と、
生徒の不審な視線を感じながらの講演中に、
大きな声で張りきった瞬間に、
入れ歯が外れ、落っことしてしまったのです。
それを見た生徒達が大爆笑


ところがその後・・・
生徒達は講演を最後まで聞き、
おまけに感動したとの感想だったそうです。


「どんな子もみんな素直。
人を見かけで判断してはいけない」

と思ったそうです。


この学校からは、その後何度も講演の依頼があり、
講演の度に変化していく生徒達の様子に、
先生自身が感動したと話されました。


先生はこんなエピソードで親族を笑わせてから、
本題の『ほんとの幸せとは』で、
感動的な講演をしてくださったのです。


この日集まった親族31名は、
「新年早々、いいお話を聞けてよかった~!」と、
先生の揮ごう入りの色紙と感動を持ち帰ったのです。


その後も先生は、
親族を気にかけてくださり、
何度か長野県に同行して、
講演会をしてくださいました。


著書の『天国人への道』
『死を乗り越えた生命でありたい』には、
先生の悲惨な生い立ち
生きるか死ぬかの闘病生活
信仰の道と結婚、子育て
生死をさまよった30日間に
霊界で見てきたことなどを著しています。




今までお会いした人の中で森山操先生ほど、
波乱万丈の生い立ちと人生を生き抜いた人
見たことがありませんでした。


笑顔と先生の温かいお人柄とお話には
多くの人を感動させる何かがあるのです。


この方によって生かされたとか
善き影響を受けたと言う人はたくさんいます。


2015年、倒れるまで
忙しく全国を走り回って講演をしていました。


再び死線から戻ってこられるだろうと思いましたが
残念ながら2015年4月17日、
逝ってしまいました。


数々の講演や著書の中には、
感動的なお話がたくさんあります。


その一つを紹介します。


  『母の愛』 森山操

                                                                                                    昭和16年私は秋田県能代市で

健康優良児として誕生しました。

生家は祖父が染物屋を営んでおり

父も仕事を手伝っていました。

働き盛りだった父は、私が3歳の時、

フィリピンで戦死し ました。

                                                               出征の時、私に「強い人間たれ」

紙に書き残した父ですが、

面影はほとんどありません。

母からはお父さんは

街一番の美男子で立派な人だったと

聞かされ誇らしく感じていました。

                                                                母は私と弟に一生懸命尽くしてくれ、

その存在が唯一の支えでした。

                                                                  しかし、私が小学2年生のある日、

母は外出したまま帰って来ませんでした。

                                                      私は毎日毎日駅に立って

母の帰りを待つようになりました。


後になって母はある男性と再婚するため、

駆け落ち同然に出て行ったと知りました。

母に捨てられたという心の傷ばかりが

大きくなっていきました。

                                                               そんな私と幼い弟を養子として

引き取ってくれたのが叔母でした。

私は叔母に対して、

いつかどこかに消えるに違いないと

疑いの目で見ていました。

                                                        素直になれずお母さんではなく

「ちょっとちょっと」と呼んでいたのです。

母になってくれた叔母は、

それでも私たちを温かく見守ってくれました。

                                                                 私が子供の頃はテレビが普及しておらず、

紙芝居が数少ない楽しみでした。

紙芝居を見るには当時のお金で

一回5円が必要でした。

                                                     私はどうしても見たくて

義母の財布からこっそり5円を盗みました

                                                       一度見ると続きが気になり、                                      何度もお金をくすねては

最終回まで通ってしまいました。

                                                                   ある夜、ふと目覚めると

仏間に明かりがついていました。

覗くと義母が仏壇の前で泣きながら

手の甲を火鉢で叩いていたのです。

                                                                「操ちゃんはいい子なんだ、

ただ5円を取るこの手が悪いんだ」

                                                                祈りとも呻きとも取れるような声が

私の心に深く伝わってきました。

義母の手には痛々しいミミズ腫れがありました。

                                                      その瞬間、

私はわっと泣きながら義母にすがりついたのです。

                                                              「お母さんごめんなさい!

もう二度と5円を取らないから・・・」

                                                                 涙と共に今まで言えなかった

「お母さん」という言葉が出てきました。

母の愛の前に冷え切っていた私の心は

完全に溶かされたのです。


あの頃の私が欲していたのが、

母親の確かな愛の深さだったのだと思います。

                                                             『父母は子供を愛するのに自分を主張せず、

自分がない立場で子どもを愛するのです』(文鮮明)



<森山操:プロフィール >
昭和16年秋田県生まれ。
車椅子で秋田大学数学科を卒業。
さらに、特殊教育を志し心理学を専攻。
卒業後、統一原理を聞き信仰の道へ入る。
その後、児童相談カウンセラーを経て情操教育に取り組み、
オアシス学校園長、全国心情教育研究会講師を歴任。
総合教育研究所を設立し、所長となる。
全国での講演活動や著書多数。
2015年4月17日亡(享年74歳)