天国への道2

🌸4世代10人ドタバタ国際家族が幸せな家庭をめざしてどう生きるか? 日々のエピソードや所感を勝手気ままに書き散らかしていきます🌸

黒真珠のように輝く瞳~アフリカ・タンザニア~

(タンザニア:ダルエスサラームの港)


「元気ですか? 私は元気です」
「お母さんが怪我して入院したんだ。助けてほしいよ」
「タンザニアにはいつ来るの?」


こんなメールが時々
アフリカのタンザニアから飛び込んでくると。
私は胸が痛くなります。
大事な子供を遠い地に残している母親のような気分です。


私がアフリカのタンザニアに入ったのは、
2019年8月26日でした。


8月25日、成田空港から、ドーハを経由して、
キリマンジャル空港にて給油し、
そこからさらにタンザニアの
ダルエスサラームに向かいました。
フライト時間は15時間なのに、
乗り継ぎなど含めて、まる1日かかりました。
日本からは遙か遠い国です。


ダルエスサラームは、「平和の港」を意味し
タンザニア最大の都市です。
日本は真夏なのに、タンザニアは
最高気温は30度、最低気温は18度、
一年で一番過ごしやすい季節でした。


この日、私たち日本人と韓国人のUPFの宣教師40名が、
“平和の母” と呼ばれている韓鶴子女史の願いと歩みを
追いかけるようにしてアフリカに入りしました。


驚いたことにタンザニアに入国した私たちは
韓鶴子女史の代身のような扱いを受けました。
空港では現地のマスコミの取材と、現地の家庭連合や、
さまざまな宗教指導者(イスラム教・キリスト教・伝統的宗教)の、歓迎を受けたのです。


私たちの現地での活動は、
常に警察の護衛と先導があり、
まるでVIP扱いでした。
こんな扱いは過去の宣教にはありません。
それだけアフリカに投入した韓鶴子女史
苦労と業績が大きいと感じました。


到着翌日の最初のスケジュールは、
まず、笹本正樹宣教師お墓参りをしました。
彼は最初にタンザニアに入った人です。                                        1980年12月に銃で撃たれ殉教しました。


タンザニアが作ったという立派な彼のお墓には、
毎月の月命日に献花がなされるそうで、
彼が、タンザニアに尽くした業績が感じられます。


(笹本正樹宣教師のお墓に献花)



私たちの現地での主なスケジュールは、
宗教団体や婦人団体、そして様々な教会の訪問です。
集会や礼拝参加は、行く先々で大歓迎を受けました。


特に礼拝は素晴らしいショーを観るようですが、
独特の唄と踊りは、明るいものではなく

重く魂に訴えてくるものがあります。


(礼拝の様子)


(女性連合主催の婦人集会)


また、タンザニアに来て一番驚いたことは、
数千人の人々が私達と写真を撮るために
集まって来たことでした。


彼らは、日の出から野外の広場に集合し、
4時間から6時間ジッと座って待っていました
暑い日差しが照り付ける日中の出来事です。


これほどの人が、どこから来たのか、
不思議な光景は、まるで野外コンサートの会場にでも
集まって来たかのようです。
黒山の人というより、カラフルな民族衣装
丘陵に咲く花畑のように見えます。


その様子は3日間続きました。
貧しい国ですから、遠くからバスに乗ったり、
歩いてやって来たのです。


(集まった人達)


日の出と共に目覚め、日没と共に眠り、
自然に逆らわず、自然と共存して暮らす彼らは、
時間の観念があいまいです。


そのため、朝の約束は昼になり、
昼の約束は夕方になりました。

「時間」にイライラしたり焦ったりしない、
穏やかに生活しています。

(ダルエスサラームの海岸)


8月31日は、
メインスケジュールの「祝福フェスティバル」
タンザニア国立競技場には、早朝から20万人の人達が、
競技場を埋め尽くしていました。
市長や国会議員たちも参加し、
20万人のカップルが祝福を受けたのです。



翌日の9月1日には、
一日かけてバスでモロゴに移動しました。
ここがタンザニアでの最初で最後の観光となった、
セルース猟獣保護区をサファリ―ツアー。


アフリカの大自然を満喫したのもつかの間
そこでは、議員さんの依頼で、
「どのようにしたら、観光客を集客できるか」という
会議を持ちました。


お金を儲けるという働き方をしないだけでなく、
お金儲けの知恵があまりないのです。


確かに、ここはキリマンジャロや
他のサファリパークのような知名度もなく
外国人観光客もチラホラでした。


(セルース猟獣保護区)


セルース猟獣保護区でたまたま遭遇した、
遠足に来た幼稚園の園児たち


その子供たちのために、寄付金をあげると、
思わぬプレゼントに一番喜んだのは、先生たちでした。
お礼にいただいた、子供たちの歌と踊りに感動です。
子供たちのキラキラ光る小さな瞳は黒真珠のようです。


(遠足に来た幼稚園児に遭遇)


(日本のUPFからプレゼントをさしあげました)


(タンザニアからも寄付金を・・・)



40人の宣教師の内、8人がマラリアに感染し、
病院に行ったり来たり苦しい体験をしたのです。
しかし、マラリアの予防接種もしていない私は、
マラリア蚊にも嫌われたのか、無事でした。


帰国する前日、
買い物を終えて宿泊先のホテルに戻ると、
現地の5人の兄弟姉妹が私の帰りを待っていました。


彼らはホテルの中には(治安のため)入れてもらえず、
外で数時間座って私の帰りを待っていたというのです。
忍耐強いばかりか、
わずかな数日間に結んだ情は篤いのです。


名残り惜しそうにやってきた彼らに、
私の持っていた荷物の中から、
あげられるものは全部差し出すと、
どんなものでも子供のように喜んで持ち帰りました
この時交わした再会の約束も、未だに果たせていません。


「タンザニアにはいつ来るの?」のメールに
コロナ禍の心配も緩んだけれど、返答に困ってしまうのです。


(タンザニアの絵画)


(宿泊先のブルーサファイヤホテル)


************
(参考)
文鮮明・韓鶴子夫妻は、
1965年から、世界127ヵ国に宣教師を派遣しました。
当時は、日本、ドイツ、アメリカの信徒を
チームにして送り出したそうです。

その当時の宣教活動は筆舌に尽くしがたい困難のため、
たくさんの宣教師が殉教しました。


しかし、世界宣教活動は世界中はおろか、
アフリカでも屈することなく、タンザニア、

ジンバブエ、南アフリカ、ケニアなどの
アフリカ全土にて宣教師が、

今もなお活動しているのです。


2018年、1月19日。
韓鶴子女史がアフリカセネガルのゴレ島に入りました。
ゴレ島は「負の世界遺産」と呼ばれ、
悲しい歴史を持っています。

15~19世紀、ゴレ島から奴隷たち2,000万人が
アメリカやヨーロッパに送られ犠牲になりました。


そのことに心痛めていた韓鶴子女史は、
犠牲になった奴隷たち二千万人の
「魂の解放と解怨式」をしたのです。


ゴレ島については、
ブログ『悲劇の歴史~ゴレ島~』に書いています。



その後、不思議なことが起こり始めたのです。
アフリカの宗教指導者や予言者と言われる人たちに
夢や啓示があり、そのことで、
急速にアフリカは変わり始めました。


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韓鶴子女史の自叙伝(329頁~334頁)には
アフリカについて次のように書いています。

「アフリカ」という言葉には

「マザーランド」という意味があります。

その言葉の持つイメージとは裏腹に、

そこで暮らしている人たちの日常は

常に困難にさらされています。

ヨーロッパの人々は搾取ばかりして、

アフリカにはほとんど何も与えませんでした。

彼らを人間として扱わず、

奴隷として連れて行ったのです。

                                                      私が初めてアフリカの地を踏んだのは

1970年頃の事です。

その時できた心のしこりが、

長い間消えませんでした。

宣教師たちを続けてアフリカに送りながら、

教会を建てるのを後回しにして、

小さいながらも学校を建て、

診療所を造り、工場を建設したのも、

アフリカの人々の暮らしを良くするためでした。

(略)

2018年1月

「アフリカサミット2018」を開催しました。

アフリカ大陸の元大統領や首相、

現職の大臣や国会議員など

アフリカ諸国60ヶ国以上から

約1200人が参加したのです。

(略)

翌日、私はゴレ島をに立つ船に乗りこみました

悲しみと苦しみの大陸だったアフリカを

解放、解怨するためでした。

(略)

アフリカは、まだ暗闇に沈んでいます。

自然は美しく豊かですが

人々は不毛な土地に住んでいます。

そこで暮らす人々は優しくて穏やかでまじめです。

私はアフリカの人の瞳を見るたびに、

美しい黒真珠を思い浮かべます。

太陽の光を浴びてキラキラと輝く、

丸くて小さな黒真珠。

アフリカの人々は貧しい生活をしていますが、

その瞳は黒真珠のようにみな輝いているのです。